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山形県の紅花栽培の歴史と現状
<紅花はシルクロードを通って>
 紅花は、むかし、末摘花(すえつむはな)、紅藍(べにあい)、久礼奈為(くれない)、呉藍(くれのあい)などと呼ばれていました。「呉藍」というのは中国の呉の国から伝わった染料という意味だとか、「呉」は高麗の訛ったものだという説もあります。
 原産地の中近東から、シルクロードを経て、3世紀頃に日本に渡来した紅花は、近畿地方で栄え、次第に全国に広まっていったといわれています。安土、桃山時代から江戸時代にかけて、藍茜、紫根とともに代表的な染料植物として京染めなどに使われてきました。


<山形の地で大きく花開く>
 いまの山形県の地域に紅花が入ってきたのは、室町時代末期と考えられていますが、江戸時代の中期を境に、最上川流域(出羽最上)で急速に栽培が拡大していきました。享保年間(1716〜1736)のある記録によると、全国の出荷量は1,020駄で、出羽最上はそのうち415駄を出荷していました(1駄は32貫=120kg)。とくに西暦1800年前後からの100年間は、最上川の舟運を通じて、近江商人と山形商人が活躍し、「最上千駄」と言われるほど発展しました。
 最盛期の幕末・文久(1861〜1864)のころには、舟運の中継地であった大石田(現・大石田町)に集まった紅花は1,550駄に達したと記録されています。なお、これらの出荷量から推測すると、800〜1,523haの作付け面積があったと推計されています。
 また、日本の特産物の番付を決めた「諸国産物見立相撲番付」では、東の関脇が「最上紅花」で、西の関脇が「阿波の藍玉」とされており、これが江戸時代の二大染料でした。


<紅花商人の活躍>
 最上川流域では、なぜ紅花の大産地が形成されたのでしょうか。気候・土壌が栽培に適していたということもありますが、山形の他に、奥州福島・奥州仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。
 紅花商人たちは、山形から紅餅を京へ出荷し、京からの帰り荷として古着、塩、魚、お茶などを持ち帰り、各地に広く商いました。行きで儲かり、帰りでも儲かるとのことで、この商売は「ノコギリ商売」と呼ばれたということです。現在でも、最上川流域の市町村には、紅花商人たちによって京から持ち帰られた江戸時代の雛人形(享保雛、古今雛など)がたくさん残存し、「山形雛のみち」や「庄内雛のみち」といわれるほど雛祭りが盛んに行われています。
 一方、紅花から採れる口紅・頬紅用の紅(べに)は生花の重量の0.3%程度と少なく、江戸時代には「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われるほど高価なものであったため、紅はごく一部の裕福な人々しか使用できず、紅花を摘む農家の娘たちとは無縁のものでした。


<紅花栽培の衰退と復興>
 明治時代になると、四川省産などの中国紅花の輸入が盛んになり、また化学染料アニリンが普及したことにより、山形県の紅花生産は大きな打撃をうけ、明治7年には400駄、翌年には200駄と急速に衰退していったと言われています。
 戦後、細々と受け継がれてきた山形県内の紅花栽培の復興の動きが見られ、昭和25年から保存会などが組織され復興の機運が高まり、昭和40年には山形県紅花生産組合連合会が組織されて、生産が拡大していきました。
 昭和40年代後半には、山形県産紅花の特性に着目した化粧品メーカーとの間で大量の契約栽培が行われ、最盛期には800人を超える組合員が36haの栽培を行うようになりました。しかし、契約栽培が無くなるとともに再び需要と生産が減少し、現在では、本物志向の染物業者や化粧品業者、草木染めの愛好者等の需要に応じた生産が行われています。


<紅花文化をまもる山形県の取組み>
 山形県では、紅花の栽培と加工品生産という文化的伝統を守るために、紅花を県の重要な「特用作物」と位置付け、その生産振興と需要の掘り起こしに取組んできました。炭そ病に弱い紅花をなるべく農薬を使わないで栽培するための技術指導を行いました。1968年に、山形県立農業試験場(現山形農業総合研究センター)では、在来種の中から染色用に適した「もがみべにばな」を選抜し、毎年、優良な種子を提供しています。
 また、山形県では1982年に紅花を「県の花」と制定しましたが、観光振興のため1997年まで「紅花の山形路」と銘打った観光誘客キャンペーンを行ってきました。最近は、地元の観光関係者の協力を得て、機能性食材として注目される紅花を使った山形県のオリジナル料理を開発し、観光旅館・ホテル・飲食店へ普及させようと力を入れています。
 このほか、産地をもつ市町は地元の「べにばな祭り」を支援し、伝統文化としての紅花、観光資源としての紅花を守ろうと努力しています。

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